RACERGP.COM掲載記事

 以下は先般イタリアの最もポピュラーなレース専門サイトに掲載されたインタビュー記事の和訳です。記者のLuca Uccheddu氏は名越の友人であり、親子二代の熱心なDUCATISTとしてもその名を知られています。版権の関係上写真は転載できませんが、下のリンクより本家のサイトをぜひ一度お訪ねください。なお、イタリア語翻訳の労を執っていただいたY氏に心より感謝いたします。


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芳賀を見出した男、名越公一との対談
photo ポディウム最上段の名越公一
 仕事で日本を訪れた際、親友の名越公一を訪ねる時間を作れたので、彼にイタリアのWEBサイトのためのインタビューを申し込み、快諾を得た。
彼を知らない人のために補足すると、名越は芳賀紀行を見出し、彼のチーム、“チーム・ファンデーション”から彼が製作したDUCATIで、芳賀を初めてスーパーバイクレースに出場させた人物である

 名越はチームマネージャー、ライダー、マシーン製作者の3役をこなす。彼を引き込んだ魅力的なレースの世界への情熱と、ドゥカティへの愛情とを彼は我々に語った。彼は本当に類稀な人物である。
photo チーム・ファンデーションの独特なイエローのカラーリング

■ コウイチ、ドゥカティへの貴方の情熱はいつ始まったのですか?

 私は昔からバイクのファンで、常にバイクメカニックをしていました。DUCATIへの愛情は、1970年代半ばに1冊の雑誌の表紙を飾った1台のDUCATIの写真を見た時から始まりました。その写真のバイクはDUCATIの750SSでした。
その後1980年に私の親友が1979年製のMHRを購入しました。一目見た時から私はそれが欲しくなり、1981年に私にとって初めてのドゥカティMHRを購入しました。その時から現在まで私はずっとドゥカティストです。しかしどうしてドゥカティストになったか、その訳はいまだに分かりません。たぶん運命だったのかもしれません。

 そして近くのケニーズというショップでレーシングメカニックとしてのキャリアが1981年からスタートしました。ケニーズは、当時トニー・ラッターのドゥカティTT2、ジミー・アダモの950TT1等をスポンサードし、1982年にはアダモ、ランツ組と、トニー・ラッター、ジョージ・フォガティー組の950TT1を鈴鹿8耐で走らせ、1983年にはトニーラッター、ボブ・スミス組の750パンタを同様に鈴鹿8耐で走らせたショップです。

■ チーム・ファンデーションを作ろうと思ったきっかけは?またどうしてファンデーションという名称なのですか?

 私はショップで常にバイクメカニックをしていました。私にとって最初のドゥカティを手に入れた時から、私はドゥカティエンジンだけを専門にしたいと思うようになりました。また1980年代に私の興味は次第に公道からサーキットに移り、結果として私の活動拠点もそちらに変化してゆきました。

 そしてファンデーション(財団法人民生科学協会)というスポンサーを見つけ、チーム名が、チーム・ファンデーションとなったのです。このスポンサーは長年スポンサーとして我々を支え、スポンサー契約が終了したときに我々はこの名前をそのまま使うことを決めたのです。なぜならこのチーム名はレース活動を継続してきた我々のシンボルであり、そして素晴らしいレース結果を獲得し、日本全国で有名になっていたからでした。

■ コウイチ、貴方は真の意味でのレース人ですね(メカニック、チームマネージャー、ライダー!)貴チームの最初の成功について聞かせてください。

 最初、レーシングマシーンの製作は私自身のためだけに行っていました。従ってレースで走るのも私でした。バイクは素晴らしい仕上がりでしたが、やがてライダーとしての自分の限界を感じ始め、優れたライダーを探す決心をしました。

 80年代のある時期にライダーとしてレースを続けることを諦め、良いライダーを見つけ、マシーンの製作に集中することにしました。その当時、私はハリスフレームのパンタを持っていて、そのマシーンで主要レースであるBOTTに参加していました。
このバイクは本当に速く、851レーシングに敗北するまで高い戦闘力を発揮しました。そして敗北を機にエンジンを載せかえる決心をしました。そしてより高い馬力を得るために906パソのエンジンを搭載しました。

 この時から我々は日本のBOTTでの無敵のチームになりました。我々の歴史はこのバイクによって始まったといって差し支えないでしょう。

■貴方のチームのアマチュアレースから全日本選手権レベルへの移行はいつ決心したのですか?

photo 1997年、チーム・ファンデーションの916レーシングを駆る井筒選手
 BOTTは技術的なレベルが如何に高くてもアマチュアのためのホビーレースです。
そして私はプロフェッショナルレーサーではありません。当然、私と私のチームはプロフェッショナルレベルでのレースでは表彰台に上ることができませんでした。

 その時、1992年の終わり頃、私はマシーン製作者としての自分の能力を試したいと思っていることに気付きました。そして優れたライダーである鈴木誠を獲得し、1993年度の全日本選手権GP 250クラスにHONDA RS250で参戦することを決意しました。

 2サイクルエンジンの整備に関しての少ない経験を考慮に入れると、結果は悪くありませんでした。このシーズンは選手権9位という結果を残しました。でも頭の中には常にDUCATIのことがありました。

 そして翌年、本来の目標に向け、全日本選手権SBKクラスに参戦することにしました。当然DUCATIで、1994年のことです。そしてドゥカティ888レーシング(926cc)を購入しました。そして、芳賀紀行という19歳になったばかりの、しかしミニバイクレースからGPレースまで既に15年のキャリアを持つという若いライダーを起用することになりました。

 元々はその年、ライダーとして前年と同じ鈴木誠を予定していました。選手権が始まる前に我々はその事について合意していましたが、チーム・ヨシムラSUZUKIが彼を強く欲しがったために、私は彼がヨシムラに行くことを認め、その代わりのライダーとして芳賀紀行を起用する決意をしたのです。
photo グリッド上の名越と芳賀選手

■ 芳賀、井筒、沼田といったたくさんの非常に有名な選手が貴方のチームで全日本選手権やワイルドカードでのSBK世界選手権へ参戦しました。これらのライダーの中で貴方が最も印象に残る選手は誰ですか?

photo ファンデーションのDUCATIにまたがる非常に若いころの芳賀選手
 1994年に芳賀選手と共に全日本SBK選手権に参戦しました。開幕2戦目で既に観衆からの賞賛を浴びるようになりました。更に1994年SUGOの世界選手権に参戦し、芳賀選手は第一レースで転倒、左側のフットレストを失いました。しかし彼は再スタートし、ゴールまでレースを諦めませんでした。ストレートではサイレンサーの上に足を置き、曲がったシフトペダルを蹴ってギアを変えなければなりませんでした。信じられないことにその状態でも彼は、彼のベストラップから1秒落ちで難なく周回していたのです。一種の天才ですね。私は彼に早く世界チャンピオンになってもらうことを願っています。

 翌年は芳賀選手の代わりに生見選手がライダーとなりました。そして我がチームでの彼の成績は年間ランキング8位で、我々を十分満足させてくれました。彼は非常に安定したペースで周回できるという特質を持っていました。彼は2003年に鈴鹿8時間耐久レースで優勝しましたが、それは彼のこういった能力が開花したと言えるでしょう。

 井筒選手もまた非常に速いライダーでした。特に彼はマシーンの開発に非凡な才能を発揮し、彼のバイクのセッティング能力は特筆すべきものでした。
鈴鹿サーキットである晩、翌日の決勝レースに備えてエンジンオイルを換えている時のことです。ドレンボルトを外してオイルを抜いたところ、私はドレンボルトのマグネットにミッションギアの破片を見つけました。直ぐに井筒選手に何かおかしなことがなかったか尋ねたところ、「予選の終わる2周前に、最終コーナーでシフトした時に何かの衝撃を感じた。その時のギアは3速だった。」と彼は答えました。私はその夜エンジンを全分解しました。確かに3速のギアが破損していました。

 今は亡き沼田選手は芳賀選手と同じように、2サイクル、4サイクル、小排気量、大排気量を問わずどんなバイクでも速く走ることができるという特別の才能を持っていました。2003年に我々は彼とSBK世界選手権に996RS で参戦し、全日本選手権SBKクラスにスポット参戦して7位という結果でしたが、その時はレースで最速ラップを叩き出しました。彼はいつも素晴らしい華やかな雰囲気を持っていました。

 他にも数多くのライダーが私のチームのためにレースを行い、素晴らしい成績を収めましたが、様々な理由でレースから引退しています。
photo 1997年の鈴鹿8時間で井筒選手のマシーンを暖機する名越

■ 1997年に貴方のチームは日本で非常に重要なレースである鈴鹿8時間に参戦しました。この挑戦について教えてください。私の記憶では予選のとき居合わせた観客をあっと言わせましたよね。

 我々のメインスポンサーであった民生科学協会は、1997年限りで我々のスポンサーを降りる事が決まっていました。そこで新たなスポンサーを獲得するために、年間を通じて日本で最も重要なモーターサイクルイベントである鈴鹿8耐に参戦することを私は決意しました。そこでの良い結果は翌年新たなスポンサーを見つける助けとなりました。

 本当のことを言うと耐久レースは、あまり好きではありません。スプリントレースのほうが好きです。1997年は全日本選手権SBKクラスに井筒仁康が走り、そして鈴鹿8耐にファーストライダー井筒仁康、セカンドライダーに鈴木誠を擁して参戦しました。

 その年、我々は全日本選手権でDUNLOPタイヤを使用しており、全日本選手権ではDUNLOPも我々にとても良いタイヤを供給してくれていました。我々は8耐に関してもDUNLOPが同じ良いタイヤを供給してくれるものと思っていましたが、その時はそうはなりませんでした。8耐では平凡なタイヤしか手に入りませんでした。これはタイヤメーカーと各オートバイメーカーとの契約がらみの政治的なものが原因だったと思っています。(1997年にDUNLOPは8時間耐久で何台かのHONDA HRCのRC45、YAMAHAとSUZUKIワークスにもタイヤを供給していた)

 しかし我々は落胆しませんでした。井筒は予選で11位となりました。参考までに10位は岡田・スライト組、12位はRC45 ワークスマシーンのコシンスキー・バロス組、17位はYAMAHAに乗るラッセル・コーサー組でした。

 レースは豪雨のもと行われ。スタートは非常にうまく行き。我々は先頭グループを形成していましたが、直ぐにコンピューターに問題が出てピットから遠く離れた場所でストップしてしまいました。しかし井筒はバイクをピットに押して戻ってきました。コンピューターを交換するとバイクは復活しコンスタントに周回を重ねました。しかしその後転倒し、マシーンを修復するために予定外にピットに戻らならければならなくなりました。我々の最終成績は36位という残念なものでした。

 もしこれらの問題が発生しなければ、我々のラップタイムを見る限り、多くのチームをラップしたでしょう。まあこれがレースです。

■ ライダーとして。チームマネージャーとしてメカニックとして貴方に最も大きな満足を与えたものは何ですか? 

 マシーン製作者としては、間違いなく1997年レース中に井筒選手が996でKAWASAKIのワークスマシンを鈴鹿のストレートで抜いたときです。この想い出は私の記憶に深く残っています。

 ライダーとしては、998RSと共に筑波で59.988秒を記録したことです。筑波を1分以下で周回することはホビーライダーである私にとって素晴らしい結果です。(補足すると筑波はたった2,070mの長さしかなく、高度なテクニックが要求され、今年の5月13日にSUZUKIのワークスマシーンに乗る秋吉耕佑によって記録されたSBK日本選手権でのレース中の最速ラップタイムは56.140秒。)

■ どのDUCATIが好きですか?その理由も教えてください。

 748/916/996シリーズの特にSPとSPS、それに996Rと998の特にSとRのシリーズです。 タンブリーニが設計したこれらのDUCATIに勝るものはないでしょう。

■ 貴方が所有またはライディングした全てのDUCATIの中で、ライディングに関してどのバイクが好みですか?

 サーキットでは998RS。 理由は単純に私が筑波サーキットを1分以下で周回することを可能にしたバイクだからです。性能面でも技術的レベルからも驚くべきバイクです。また、1996年型の916RACING(955cc)はエンジンと車体のバランスが最良のバイクだと思います。ストリートバイクの中では1998年型の916SPS(996cc)が私の好みのバイクです。

photo 名越によって見事に整備された851ベースのスペシャルバイク

■ マシーン製作者として特にどんなタイプの仕事を好みますか?

 私は精密な解決策を取ることを好みます、私の851は良い例だと思います。サーキットで人がそれを見ると個性のない851だと思うでしょう。しかしカウルの中には996のエンジンが隠されているのです。

 94年の888 RACINGのフレームに、補強した888 SP3のスイングアーム、エンジンのクランクケースはST4S、996 SPSのヘッドにφ37mmの吸気バルブとハイコンプピストン、96年型916レーシングのφ54mm径のスロットルボディ、94年型888 RACINGの54mm径の排気系を装着しています。更に現在、98年型996RACINGのヘッドとピストン、00年の996 RSのカムシャフト、97年型916 RACINGの60mm径のスロットルボディを装着することを検討しています。

 私はこのバイクを愛しています。なぜなら多くの人が速いと思っていないバイクで実際に速く走る事が出来ると、それを見た観衆がその性能に驚嘆するからです。
でも今は新しい1098にも興味があります。

■ 将来どんなDUCATIを貴方のガレージに置きたいですか?

 1098 RS です。

■ チーム・ファンデーションの将来のプロジェクトは?全日本選手権SBKクラスに再び出場することはありますか?鈴鹿の8時間耐久で黄色いDUCATIを再び見たいのですが可能ですか?

 プロフェッショナルなレースへの参戦は現在のところ考えていません。現在全日本選手権SBKクラスは新しい規定があり、SBK世界選手権仕様のバイクの出場は認められていません。従ってドゥカティの市販レーシングモデルを使用することができません。もし全日本選手権の新しい規定で1098の出場が認められれば、もちろん興味深いことです。優秀な選手を獲得して.....

■ コウイチ、インタビューにつき合ってくれてありがとう!

 こちらこそありがとう。全てのドゥカティストによろしくお伝えください。
 

Luca Uccheddu "KarasauKid"
RACERGP.COM PRESS

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