チーム・多田勉の仲間 2000年もて耐参戦記
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多田さんとのこと
多田勉氏在りし日の勇姿
 私が初めて多田勉さんと出会ったのは、今からもう15年くらい前、場所はスポーツランドSUGOでのことだった。 その時はたしか彼の率いるコシカワモータースの貸し切り走行会か何かで、SUGOのサーキットライセンスもいっしょに取得できるというものだったと思う。当時のSUGOのコースは今と違う旧コースで、ピットエンドのあたりにシケインがあり、そのシケインを抜けるともうそこはハイポイントコーナーというレイアウト。SPコーナー周辺も今とは違うコースレイアウトだったと思う。

当時の多田さんはかなりスリムで目がつり上がっていて、おまけに背も高く、凛々しい印象を受けたように記憶している。しかし実際の多田さんは、その人柄もあいまって周囲には彼を頼る人、また彼に協力を惜しまない人達が常に集まり、いつもにぎやかな雰囲気に囲まれていた。 余談になるが、彼はドラムもたしなみ、その腕はかなりのもので昔はそれで稼いでいたこともあったとも聞いている。私も彼と一緒にバンドで演奏したことがあり、その腕前は勿論の事、えっあの多田さんが......という意外性に重ねて驚かされたのも楽しい思い出だ...。

 多田さんと次に出会ったのはエビスサーキットで行われたサンデーレースの時だった。 私と多田さんは同じクラスに出場していた。彼はちょうど久しぶりにレース活動に復帰した時で、ドゥカティ750F1でいきなり予選でポールポジションを取得していた。 決勝レースではビモータDB-1に乗る私と多田さんがトップ争いを展開し、結局私が辛くも1位でゴールしたのだった。

 その後は色々なレースで彼と一緒に走ったが、私が多田さんの前でゴールしたのは後にも先にもこの時のただ一度だけ。それからは常に多田さんの方が私よりも前でフィニッシュしていた。

 私と多田さんとの関係はその後もずっと続き、エビスで私が乗っていたDB-1のフレームはいつしか多田さんが使うようになった。そして、その後の変遷の後、多田さんの乗るマシンが916系になると、エンジンのメンテナンスは私が引き受けることが多くなった。多田さんの最後の愛車は996SPS。私がエンジンを組み直し、ピストンをハイコンプレッションの物に交換し、2速ギアをコルサの物に組み替えた仕様のものだった。

 あの事故のあと、エンジンに原因があったのかどうかを確かめるために、グッツィスポルトの神宮司さんの立ち会いの元、二人でエンジンを全バラにした。 結果としてエンジンには何の問題もない事がわかり、私はほっとした。

 右側に転倒していたのでクラッチレバー側は無傷だったにもかかわらず、事故後のマシンはクラッチレバー中間のピボットピンが綺麗に抜け落ちて無くなっていた。 おそらく裏のストレート走行中にピンが脱落し、その結果クラッチが使えなくなりパニックになったのではないかと思う。まわりの迷惑にならないようにと、とっさの 判断で進路をコースのイン側の右方向に取り、速度を落とそうとクラッチなしの無理なシフトダウンを敢行してしまった事が、あのような結果を引き起こしてしまったのではないか........これがおおかたの関係者の推測である。 しかし、本当の事はもう想像の世界の事でしかなくなっており、真実はもう誰にも判らない。  エンジンは写真のようなバラバラの状態のままコシカワモータースでしばらくの間 保管されていた。

 その後、マシンの使える部品は有志の方々によって引き取られ、そのお金はご遺族の方に手渡された。


 あれから少し時が経った今、あらためて何かを記そうとしても、あまり多くの言葉を書き連ねる事ができない。多田さんという、良き先輩・友人であり、理解者であり、そして走りのライバルでもあった存在を失ってしまった....その事実の重さをしみじみと感じる。
ただ、心から彼の冥福を祈るばかりである。

2000年初冬 名越 公一

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